入江杏子さんには子供がいなかった可能性があります。
さらに、檀一雄さんとは愛人関係でしたが、結婚した旦那さんはいなかった可能性があります。
入江杏子さんは17歳の時に檀一雄さんが作った劇団の「珊瑚座」に入った事で、2人は出会いました。
その後、1956年8月に2人は男女の仲になり、同棲を始めました。
入江杏子さんと島村剛さんとの事で、2人は口論になり最終的に破局を迎えてしまいました。
当記事では、入江杏子さんについて書きました。
入江杏子には子供がいなかった?
引用:gooblog
入江杏子さんには子供はいなかった可能性があります。
入江杏子さんは檀一雄さんと愛人関係でしたが、2人の間に子供はいませんでした。
檀一雄さんには子供が5人いますが
長男の太郎さん(1943年8月生まれ)は、前妻の高橋律子さんとの間の子供で
その後、1946年11月に山田ヨソ子さんと結婚し、ヨソ子さんとの間に
- 1950年5月、次郎さん誕生
- 1953年2月、小弥太さん誕生
- 1954年6月、ふみさん誕生
- 1956年3月、さとさん誕生
と言った子供がいます。
そして、檀一雄さんと入江杏子さんが男女の関係になったのは、1956年8月です。
この事から檀一雄さんと入江杏子さんとの間に子供はいません。
そこで、新潮日本文学アルバム『檀一雄』を見ながら、沢木耕太郎さんの『檀』 (新潮社)を読み始めた。 結論はこうだ。 4月に律子が亡くなった昭和21 (1946)年11月、山田ヨソ子と結婚(一雄34歳)。 昭和23(1948)年10 月、上京してきたヨソ子、太郎と練馬区南田中に住む。 昭和25(1950)年5 月、次男次郎誕生。 昭和26(1951)年、石神井公園近くに家を購入して転 居。 昭和28(1953)年2月、三男小弥太誕生。 昭和29(1954)年6月、 長女ふみ誕生(一雄42歳)。 昭和30(1955)年8月、次郎日本脳炎を発病。 昭和31(1956)年3月、次女さと誕生。 8月、入江杏子と蔦温泉で事を起す。
引用:轟亭の小人閑居日記 馬場紘二
そして、入江杏子さんの子供の情報は出て来ないので、入江杏子さんには子供がいなかった可能性があります。
ちなみに、2016年の「韋駄天の劇作家の記」にて、入江杏子さんについて書かれてて
入江杏子さんの家に食事に呼ばれたことがある。小ぶりだが、立派な柱があった。「いい柱ですねえ」というと「檀が担いで持って来たんですよ」と事もなげにおっしゃった。
この無防備さと無邪気さとおおらかさが、誰からも好かれる原因なのかもしれない。
料理もうまい。
明日は、入江の杏っ子さんが杖をついて、我が家に食事にいらっしゃる。
と言った感じで独身女性っぽい描写でした。
この部分からも、子供はいなかったのかも?しれませんね。
入江杏子の旦那(夫)|檀一雄とは愛人関係!
入江杏子さんは檀一雄さんとは愛人関係でした。
こちら、入江杏子さんと檀一雄さんとの画像です。
引用:goo blog
1947年1月に檀一雄さんは劇団「珊瑚座」を結成します。
この劇団に17歳の入江杏子さんが参加し、2人は初めて出会います。
檀一雄さんは「今後劇団に美人が入った」と言ってて、それが入江杏子さんの事でした。
その後、檀一雄さんは入江杏子さんを貿易会社の事務員として雇います。
ただ、上記の劇団も貿易会社もうまく行きませんでした。
1956年に太宰治さんの記念碑除幕式に招かれて津軽に行きますが、その時に入江杏子さんも同行しました。
そして、1956年8月に青森の蔦温泉で入江杏子さんと男女の関係になり、湯川を回り、檀一雄さんは帰宅をします。
帰宅した檀一雄さんは奥さんに対し、「ヒーさん(入江杏子)と事を起こしたからね」と言って、奥さんは怒って翌日に家を出る決心を固めました。
その後、2人は同棲を始め、1957年2月に浅草千束町のマッサージ屋の二階に転居します。
ちなみに、檀一雄さんの母親も奥さんも入江杏子さんの事はよく知ってたそうです。
1999年の入江杏子さんの著書『檀一雄の光と影 「恵子」からの発信』にて、檀一雄さんについて以下の様に書かれています。
檀一雄が亡くなって二十年経って、私は『火宅の人』を最初から丁寧に読み返してみたのです。(中略) 私の青春のすべてであった恋が、破局に向かってゆく道程をもう一度たどるということは、やはり辛いこと でした。でもたどるうちに知らなかった事実、気付かなかった彼の心が、次々に目の前に現出してゆくのです。
彼は亡くなっています。それならばある時期、共に生きたことのある私が感じたことを、檀一雄が自分の 文学に誠実に生きるため突進して行った凄絶な人生を、ほんの一部でしょうが、私が理解している面だけでも、 書いておかねばならないのでは……、『火宅の人』の登場人物の一人である私にも、書かねばならぬ責任が あるのではないかと思ったのです。
ただ、(あの本を読んで)檀さんってひどい人ネ、と言う人がいると、そんな人じゃないわヨ、と言って やるんです。檀はもう死んじゃって自分じゃ言えませんから、本当はそんな人じゃないって、私が代わりに 言ってあげたかったんです
引用:有隣堂
有鄰の1999年11月10日にて、入江杏子さんと島村剛さんとの事により、檀一雄さんとは破局を迎えてしまったのでは?と書かれています。
とくに顕著な相違は、入江さんの、もう一人の男性の噂についてである。『火宅の人』によれば、檀一雄は アメリカの財団に招かれて欧米旅行に出かける直前、入江さんは右翼の大立者島村剛の思われ人だから手を 引いた方がいいと忠告され、外遊の間じゅう憂悶することになっている。島村は元満州の馬賊で、 「夕日と拳銃」のモデルとして檀一雄も親交があった。
入江杏子さんは島村剛さんとの関係については
「全くのデマで、出どこは一人なんですが、それが何人かの耳に伝わって、二、三人の人から言われたために、 檀も本気にして、本当に悩んでしまったんですね。私はそんな大事件とは少しも思わず、ハハハと笑って おしまいになることだと思っていたのです」
と語っています。
島村剛さんとの事は、檀一雄さんがアメリカの財団に招かれて欧米旅行に行く前から話し合ってたみたいで、帰国後にこの事が蒸し返される事になります。
そして、2人は乱闘になってしまい、檀一雄さんは肋骨を折る重傷になり、その翌日には檀一雄さんの姿はいなくなってたそうです。
帰国後間もなく、この件が蒸し返される。ここは『火宅の人』から引用しよう。
〈恵子がこの時ほどにくにくしい怨恨の鬼相を呈したことはない。(中略)ジロリと見上げ/「サッサと、 石神井(注、自宅)に帰ってしまったらどう?」/この時、私が何をわめき、何を言ったか覚えていない。 気がついた時には、恵子をひきずり起し、とっては投げ、とっては投げていた。掻爬後まもない女の体だなどと いうようなことは、考えてもみなかった〉。
この乱闘で檀一雄も肋骨を折る重症を負った。そしてこれが、激しい恋の破局に結びついていくのだ。 以下は、入江さんの『檀一雄の光と影』から──
〈……この乱闘は突如起こった争いではなく、そうなる下地はあったのです。/酔って帰った彼は、私が 投げつけた言葉に逆上して、また島村氏のことを持ち出しました。(中略)あの美しかった日々はどこに 行ってしまったのか?〉
その後の修羅場は『火宅の人』とほぼ同じだ。〈その翌日彼は姿を消しました〉。「愛は終わった」と 入江さんも思うのだ。
入江さんはその後、演劇人として劇団「民芸」の舞台に専念する。ゴーリキーの『最後の人々』、 ハケットの『アンネの日記』、アーサー・ミラーの『セールスマンの死』その他の舞台で大役をこなした。 一昨年クモ膜下出血で倒れたものの、全快し、後遺症もなく、再び舞台に立っている。 「私は”風“に恋したのです。青春の一番いいところを檀に捧げました」。老いてなお花のある豊かな表情 はその充実感のせいか。
ちなみに、檀一雄さんは、入江杏子さんと破局後は、奥さんのヨソ子さんと夫婦穏やかな暮らしを送っています。
こちらは、1965年に自宅で料理を行う檀一雄さん夫婦と長男夫婦の画像です。
引用:徒然Lee‘s ブログ
と言った感じで、入江杏子さんは檀一雄さんとの関係以外の情報は出て来なかったので、結婚した旦那はいなかったのかも?しれませんね。
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